ベトナムのベストセラー小説「つぶらな瞳」を読む。その3

 ③登場人物の名前について

danangronin.hatenablog.com

 前回の記事では「つぶらな瞳」の物語の舞台はどこなのかというテーマを論じましたが、映画鑑賞者から、映画の「都会」はフエだったという情報をいただきました。

なるほど、フエだとおよそ140kmで半日のバス移動を要する距離と一致しますね。大学ならわかりますが、高校でなんでフエまで?近場のダナンやタムキーでええやろ、というところは釈然としないのですが、とりあえず小説のストーリーも大都会フエで展開していると仮定します。

 

さて、今回のテーマは名前です。この物語の主要な登場人物は4人です。主人公のガン、ヒロインのハー・ラン、恋敵のユン、ハー・ランの娘のチャー・ロンです。

ベトナム人の名前ですが、中国や日本と同じく、名字(姓)+名前の順番になっています。一部を除いて、ほとんどの場合漢字(漢越語)で表記することができます。姓が1文字の漢字、名前が2文字の漢字が多いですね。

例えばもっとも有名なベトナム人ホー・チ・ミンは姓が「胡」、名前が「志明」です。ベトナムでは姓ではなく一番最後の名前で呼ぶのが一般的なのでホー・チ・ミンは家族や友人からは「ミン」と呼ばれていたはずです。(偉くなってからは敬称付きでしょう)

 作品の登場人物は全て名前です。姓を含めて名前が出てきた例は詩人や歴史上の人物として参照されている場合に限られます。上記の4人も名前です。

ベトナム語の原書は手にしていないので小説版のwikipediaを参照しましたが、ベトナム語では

ガンは「Ngạn」

ハー・ランは「Hà Lan」

ユンは「Dũng」

チャー・ロンは「Trà Long」

のようです。

Mắt biếc (tiểu thuyết) – Wikipedia tiếng Việt

 

ガン「Ngạn」はたまに見かける男性の名前で、漢字では「彦」です。日本語では「ひこ」以外の読み方は一般的ではありませんが、音読みは「ゲン」です。三国志に詳しい人なら諸葛孔明の舅の黄承彦(こうしょうげん)を思い出すかもしれません。「彦」はすばらしい男という意味ですので美名ですね。

 

ハー・ラン「Hà Lan」は2文字になっています。普通は「Lan」と後ろの文字で呼びますが、近くに同じ名前の人がいる場合に2文字で呼ぶことが多いです。この作品ではチャー・ロンやビック・ホアンのように女性が2文字で呼ばれることが多いですが、特に名前を混同するような登場人物はおらず、作者の意図はよくわかりません。

「Lan」は一般的な女性の名前で植物の「蘭」です。とても多い名前です。

「Hà」も女性に多い名前です。日本語で「カ」と読まれるいろんな漢字が候補にあり、特定は難しいですが人名に使われるのは「河」である場合が多いです。

仮にハー・ランが阮氏であるならば本名はNguyễn Thị Hà Lanのような名前ですね。

 

ユン「Dũng」もよく見かける男性の名前です。日本語「ユウ」と読まれる漢字で候補はたくさんあるのですが、男姓の名前の場合間違いなく「勇」です。ちなみに北部では「ズン」と発音されていて混乱しますが同じ名前です。たとえば先代のベトナム首相Nguyễn Tấn Dũngは阮晋勇です。ニュースではズン首相ですが、名前はユンと同じです。

 

さて、最後はチャー・ロン「Trà Long」です。長々とうんちくを並べましたが、ここが今回の本題です。

「Trà」はベトナムでは日常的によく目にする単語です。「茶」ですよね?辞書にはいろんな漢字がありますが「Trà」を見てお茶以外を連想するベトナム人っているの?

女の子の名前に「茶」を入れる感覚がわからないので悩みましたが、いろいろ調べていくうちにサザンカやツバキを「Trà」と呼び表すことがあることに辿り着きました。サザンカやツバキはともに分類上Camelliaという同属に含まれます。中国語ではツバキ類一般を山茶と総称するようです。ベトナム語でも山茶「sơn trà」なのですが、略されるようです。そのため、ベトナムではサザンカもツバキも一括されて「Trà」と呼ばれることがあるようです。

ベトナムのツバキと切手

https://www.keisen.ac.jp/extension/research/gardening/pdf/e1_hakoda.pdf

 結論として人名の「Trà」はサザンカやツバキの花を意味しているようです。これなら女の子の名前として納得できますね。

そして「Long」なのですが、これは一般的には男性の名前で「竜」の漢字で表されます。私の知人には「Long」という名前の女性はいませんが、webで検索してみると出てきます。「Long」は女性にも使われることがあるようです。どんな漢字なのだろうかと辞典を調べていたら・・・あ!これだ!

Tra từ: 鸗 - Từ điển Hán Nôm

潰れていて読めませんね・・・大きくしましょう。

鳥の上に龍という漢字です。意味は何かというと、vịt trời、白いアヒルではなく野生の鴨です。

ここですべての点が一本の線になりました。

 

話が変わりますが、ベトナム語の原題Mắt biếcはどういう意味でしょうか?Mắtは「目」です。biếcは「つぶら」という意味かというと違います。biếcは「藍色の、緑がかった青色」という意味です。直訳するなら「つぶらな瞳」ではなく「藍色の瞳」なのですが、訳者は「つぶらな瞳」がふさわしいと思ったのでしょう。ベトナム人で藍色の瞳を持った人はまずいませんwちなみに映画のハー・ラン役のNguyễn Trúc Anhもやや茶色の瞳で藍色とは程遠いですね。biếcはガンがハー・ランの瞳を美化した心の中の色なのです。

それではbiếcは具体的にどんな色なのでしょう。biếcに対応する英語の概念tealを参照すればわかりやすいです。英語のtealは青緑色のことなのですが、元々はコガモを意味します。つまり鴨の頭の青緑色の毛色がteal=biếcの色になったのです。鴨の羽色という言葉もあります。

鴨の羽色 - Wikipedia

 

ここまでくると私の言いたいことがわかるでしょう。つまり「Long」は鴨、「Mắt biếc」の鴨の羽色に対応しているのです。「Mắt biếc」はハー・ランの中だけではなく、チャー・ロンの中にもある。作者がハー・ランの娘の名に「Long」を選んだのは、母親の「Mắt biếc」を娘の名前の中に痕跡として残すという意図があったからだと推測します。いかがでしょうか?

 

ちなみに英語版の映画ではTeal eyesではなくDreamy eyesという題名のようです。これも素敵な訳ですね。